お城に詳しい方なら一度は聞いたことがあるであろう
豊臣政権時代築城した城壁→黒
徳川政権時代築城した城壁→白
という概念。でも、私の大好きな松江城なんかは
築城1600年、関ヶ原合戦後に築いていますが城壁は黒です。
あれ?と思われた方も多いはず!
では、なぜこのような通説が出てきたのでしょうか?
豊臣秀吉の城
通説:晩年金好きで知られる秀吉ですが、まさに金が映えるのは黒壁!ということで黒
確かに大阪城は金箔瓦に、難燃塗料である漆を塗った下見板と黒漆喰の壁で構成した
黒い天守でした。
ですが、、、
その他の聚楽第、肥前名護屋城、伏見城は白壁の天守です。…あれ?
徳川家康の城
通説:見る者に優美さを感じさせる白亜の城を好んだから。
また、視覚的に膨張色で威厳を保つためなんてことも言われています。
確かに江戸城なんかはそうですね。
ですが、、、
家康晩年の居城である駿府城なんかは黒壁ですね。…あれ?
技術の変化
こうした通説の背景には、技術の変化もあったようです。
豊臣政権時代は下見板張りといって板に炭と柿渋を混ぜた物を塗っていました。
しかし、時代の変化と共に塗籠といって石灰に麻を交ぜて外壁に使用する
技術が出てきました。
う~ん、なるほど!
それは、後世の人からすれば関ヶ原以前は黒壁の城が多くて
それ以降は城壁の城が多いから豊臣派と徳川派に分かれてしまったのではないか
と仮説を立てる人が多いのも納得!!
た・だ・し
大阪城に対抗するために、最新技術である「塗籠」を積極的に
徳川方の大名に技術指導をして、白壁の城が多く作られるようになった話であったり
山内一豊が高知城築城時に家老から
「高欄(手すり)を付けると豊臣派に思われるからやめてください」
と進言された。
なんていう逸話もあったことから通説も強ち間違えではなさそうですね。